【EPO Technical Board of Appeal / 2026年4月30日】T 0964/24 - 抗真菌化合物SCY-078のクエン酸塩結晶形に関する特許有効性控訴審判決
1. 事案の概要(事実経過・請求内容)
【当事者および手続の背景】
本件は、Scynexis, Inc.(特許権者・被控訴人)が保有する欧州特許第3247711号(発明の名称:「NOVEL SALTS AND POLYMORPHS OF SCY-078」)に対する異議申立手続の控訴審案件である。異議申立人であるSynthon BV(控訴人)は、異議部が本件特許に対する異議を棄却(特許維持)した決定を不服として控訴を提起した。
【特許発明の概要および請求内容】
本件特許は、抗真菌化合物であるSCY-078(化合物1)のクエン酸塩およびその特定の結晶形に関するものである。
- 主請求項(特許設定クレーム): SCY-078のクエン酸塩(SCY-078 citrate)全般を権利範囲とする。
- 補助請求項1〜3: 主請求項と実質的に同一の範囲。
- 補助請求項4: SCY-078のクエン酸塩のうち、特定のX線粉末回折(XRPD)ピーク(d値または2θ値)で特定される10種類の結晶形(Type A, B, E, F, M, N, O, Q, R, S)のいずれかを含むものに限定した請求項。
2. 判決の主文
1. 原決定(異議部決定)を取り消す。
2. 本件を異議部に差し戻し、控訴答弁書と共に提出された補助請求項4(請求項1〜10)に基づく修正された請求項並びに適宜修正される明細書及び図面をもって特許を維持するよう命ずる。
3. 主な争点
- 争点1: 新規性(EPC第54条) - 先行技術文献D6において「SCY-078またはその薬学的に許容される塩」と「代表的な塩のリストの中のクエン酸塩」が開示されている場合、主請求項(SCY-078クエン酸塩全般)の新規性が否定されるか。
- 争点2: 新規事項追加(EPC第123条(2)項) - 補助請求項4における特定の結晶形(Type A等)のXRPDピーク選択・組合せ("and/or"規定等)が出願当初の明細書の開示範囲を超えるか。
- 争点3: 実施可能要件(EPC第83条) - 結晶形の動的溶解度(kinetic solubility)の測定分散・ばらつきや、多形の重複・混合物が含まれる可能性により、当業者が補助請求項4の発明を実施できないか。
- 争点4: 進歩性(EPC第56条) - 最近接先行技術(D6等)に対し、特定のクエン酸塩結晶形を選択すること、およびそれに伴う擬似腸液中での高い動的溶解度・生物学的利用能(bioavailability)の向上が、常套的な塩スクリーニングから当業者に容易に予測可能であったか。
4. 裁判所の判断ロジック(判示の要旨)
(1) 主請求項および補助請求項1〜3の新規性(EPC第54条) - 肯定(新規性欠如)
D6のクレーム49にはSCY-078およびその薬学的に許容される塩が開示され、明細書本文(col. 21, l. 54 - col. 22, l. 21)には「代表的な塩」としてクエン酸塩(citrate)が列挙されている。 特許権者は「SCY-078の塩の選択」と「クエン酸の選択」および「アミン塩の選択」という複数階層の選択が必要であるため新規性があると主張した。しかし、審判部(Board)は以下の通り判示し、新規性を否定した。
- D6の「すべての化合物は塩として投与可能」「代表的な塩としてクエン酸塩を含む」という記載により、当業者はSCY-078のクエン酸塩を直接かつ一義的(directly and unambiguously)に導き出し得る。
- 塩基性アミン基での塩形成か酸性カルボン酸基での塩形成かという分類は塩形成機構の反映に過ぎず、対イオンとして「クエン酸」を選択した時点で自動的に決定されるため、独立した追加の選択(further selection)とは言えない(T 636/10参照)。
(2) 補助請求項4の明確性(EPC第84条)および新規事項追加(EPC第123条(2)項) - 適合
【明確性】 XRPDピークの相対強度(relative intensities)を特定せずピーク位置(d値/2θ)のみで結晶形を特定することは、結晶多形分野における確立された実務慣行であり、不明確とは言えない。
【新規事項追加】 出願当初の明細書(段落[0176]〜[0185]および表I)には、相対強度の高い主要6ピークのd値および2θ値が記載されている。これらを"or"または"and"で組み合わせることは当業者にとって明らかであり、原出願の開示範囲内である。
(3) 補助請求項4の実施可能要件(EPC第83条) - 適合
出願当初の明細書(実施例4, 6, 21, 24, 26等)には、Type A等の製造方法および動的溶解度の測定手順が具体的に記載されている。控訴人は水における溶解度測定のばらつき等を理由に非難したが、請求項で規定された緩衝液・各種擬似腸液(FaSSIF/FeSSIF)において同様の不都合が生じる証拠を提示していないため、当業者が発明を実施するのに十分な開示がある。
(4) 補助請求項4の進歩性(EPC第56条) - 肯定(非容易推考性あり)
審判部は、D6(SCY-078またはその塩)を最近接先行技術(closest prior art)として以下の通り判断した。
- 相違点: 補助請求項4は、SCY-078の10種類の特定のクエン酸塩結晶形に限定されている点。
- 技術的効果の立証(G 2/21の基準適用): 出願当初の明細書中の実験データ(表18, 41)において、Type Aクエン酸塩結晶形は、他のSCY-078塩(ヒプリン酸塩、フマル酸塩、塩酸塩等)と比較して、空腹時擬似腸液(FaSSIF)および食後時擬似腸液(FeSSIF)中で著しく高い動的溶解度を示した。擬似腸液中での高い動的溶解度が経口生物学的利用能(bioavailability)の向上に結びつくことは技術常識であり、出願当初の開示から直接導き出せる。
- 課題の定立: 「生物学的利用能が向上したSCY-078塩の提供」。
- 非容易推考性(Obviousness): 先行技術のいずれも、クエン酸塩を選択することで他種の塩よりも生物学的利用能が向上することを示唆していない。常套的な塩スクリーニング(routine salt screening)において「課題解決を期待して試みる(hope to find)」ことと「成功の合理的期待(reasonable expectation of success)」があることは同義ではない(T 1684/16参照)。本件のクエン酸塩は他の塩に対して優れた動的溶解度・生物学的利用能を有しており、単なる恣意的な選択(arbitrary selection)には当たらない(T 777/08参照)。
5. 実務上・判例上の法的なポイント
- 多重選択(Multiple Selection)と新規性の判断枠組み: 先行技術文献において一般的な塩のリストが開示されている場合、特定の化合物と特定の塩(対イオン)との組み合わせが「直接かつ一義的」に開示されているとみなされるか否かは、文献全体の技術的文脈(technical link)に依存する。対イオンの性質上、反応部位が必然的に決まる場合(例:クエン酸=塩基性アミンとの塩形成)、反応部位の選択は独立した選択肢としてカウントされない(T 636/10の法理を再確認)。
- G 2/21に基づく事後提出データおよび技術的効果の評価: 明細書中の初期データ(FaSSIF/FeSSIFにおける動的溶解度)から生物学的利用能の向上という定量的・定性的効果が技術常識を介して導き出せる(derivable)場合、その効果は課題設定の基礎として有効に認められる。
- 塩および多形(Polymorph)の特許性とルーチンスクリーニング: 単に新しい塩や多形を取得したというだけでは進歩性は認められにくいが、一般的な塩スクリーニングにより得られる他の塩と比較して顕著な技術的効果(本件では擬似腸液中での動的溶解度および生物学的利用能の明確な優位性)を立証できれば、常套的な実験の範囲内であっても進歩性が肯定される(T 777/08およびT 1684/16の定着した基準の適用)。
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