【欧州特許庁審判部 / 2026年6月18日】T 1439/24 - 高齢者の認知機能改善用組成物に係る進歩性(EPC第56条)の有無に関する審決

1. 事案の概要(事実経過・請求内容)

本件は、特許権者(N.V. Nutricia、控訴人)が保有する欧州特許第1976504号(発明の名称:膜組成改善のための多価不飽和脂肪酸、タンパク質、マンガンおよび/またはモリブデンを含む組成物)に対し、異議申立人(Société des Produits Nestlé S.A.、被控訴人)が欧州特許条約(EPC)第100条(a)(第56条・進歩性欠如)、(b)(開示の十分性)、(c)(新規事項の追加)に基づき特許異議を申し立てた事案の控訴審である。

EPO異議部は、最先の先行技術であるD5(WO 03/041701 A2)に基づき、本件特許(主請求および全補助請求)が進歩性を欠くとして特許取消決定を下した。これを不服とした特許権者が控訴を提起し、口頭審理期日直前に主請求および補助請求1(所定のエネルギー、タンパク質、脂質、可消化炭水化物の比率およびDHA+DPA+EPA、システイン/タウリン、リン脂質、ビタミンB群、マンガン、モリブデンを含有する高齢者認知機能改善用組成物)に請求の範囲を絞り込み、特許維持を求めた。

2. 判決の主文

本件控訴を棄却する(The appeal is dismissed.)。原審(異議部)の特許取消決定が維持された。

3. 主な争点

  • 争点1: クレームの解釈および最先の先行技術(D5)との相違点の認定(開放型クレームおよび明確な投薬単位の欠如が相違点の特定に与える影響)
  • 争点2: 後提出の実験データ(Post-filed data)による有利な効果・相乗効果の立証可能性と客観的技術課題の設定(提出された比較試験が審判例の確立した比較対照要件を満たすか否か)
  • 争点3: 相違点に係る構成の自明性(EPC第56条)(代替組成物を提供するという課題に対する当業者の創作能力の範囲)

4. 裁判所の判断ロジック(判示の要旨)

(1) クレーム解釈および最先の先行技術との対比

  • 本件主請求クレーム1は開放型用語(「having」「comprises」)を用いた物(組成物)クレームであり、特定の投薬単位(dosage unit)や投与計画を特定していない。したがって、重量範囲の記載からD5(食餌S2)と区別される固有の濃度差を導き出すことはできない。
  • D5記載の食餌S2(ラット用対照食餌)はDHA/EPA、リン脂質、ビタミンB群等を含むが、システイン、マンガン、モリブデンの含有は直接的かつ一義的に開示されていない。したがって、これら3成分(システイン、マンガン、モリブデン)の存在のみがD5に対する相違点と認定される。

(2) 技術的効果の認定および客観的技術課題の再設定

  • 特許権者は、後提出された比較実験報告書(D9, D10, D12, D18〜D21)および臨床試験報告(D15〜D17)に基づき、認知機能改善における相乗効果が立証されたと主張した。
  • 審判部は、進歩性の判断において後提出の比較試験を参酌するための確立された3要件(①対照サンプルが先行技術を、試験サンプルがクレーム発明を適切に代表していること、②観察された効果が相違点たる技術的特徴に起因することが示されていること、③クレームの全範囲において効果が達成可能と信憑性をもって認められること;T 2923/19等)を提示した。
  • 本件の提出証拠は、D5の有効成分(EPA/DHAの組合せ)を対照組成物に反映していない点、相違点以外の複数成分を同時に変更している点、あるいはクレーム上で任意成分にすぎない成分(DHA単独やウリジン等)の寄与を排除できていない点から、上記要件をことごとく満たさない。
  • したがって、D5に対する顕著な改善効果や相乗効果は信憑性をもって立証されておらず、客観的技術課題は「認知機能の改善に適した代替的組成物の提供」へと減縮・再設定される。

(3) 自明性の判断

  • タンパク質源に含まれるシステインは食品製造に汎用される通常のタンパク質に必然的に含まれるものであり(本件明細書自体の記載)、マンガンおよびモリブデンは特別医療用食品に関する周知の公知文献(D7)において成人向け推奨成分として開示されている。
  • D5を出発点として認知機能改善のための代替組成物を開発しようとする当業者が、周知技術に基づきこれら成分を配合することは容易であり、格別の創意を要しない。
  • したがって、主請求および補助請求1に係る発明はEPC第56条に基づく進歩性を欠く。

5. 実務上・判例上の法的なポイント

1. 比較実験データ(Comparative Tests)の証拠能力に関する厳格な基準(審判例の再確認)
本判決は、進歩性の基礎として顕著な効果や相乗効果を主張する際の後提出実験データについて、T 2923/19等に代表される要件(先行技術との適格な対比、変数の単一性・特定性、クレーム全範囲への妥当性)を厳格に適用した事例である。対照群の組成が先行技術文献の開示と一致していない場合や、相違点以外の複数の変数が同時に変動している実験系は、技術的効果と相違点との因果関係を証明するものとして認められない実務上のリスクが浮き彫りとなっている。

2. 開放型組成物クレームにおける濃度・数値範囲の主張限界
クレームが「comprises」等を用いた開放型(open-ended)の物クレームであり、1食あたり・1日あたり等の投薬単位が明確に限定されていない場合、記載された絶対量(mg)から実質的な濃度差を導いて先行技術との差異を主張することは困難である。製剤・栄養組成物の特許実務においては、クレームドラフティング段階で投薬単位(dosage unit)や明確な比率・濃度限定を適切に配置することの重要性が示唆されている。

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