【欧州特許庁審判部 / 2026年7月2日】T 1391/24 - 塗料および漆喰用下塗り組成物(プライマー)の進歩性欠如に基づく特許取消決定

1. 事案の概要(事実経過・請求内容)

本件は、DAW SEが保有する欧州特許第3640304号(発明の名称:「塗料および漆喰用プライマー」)に対し、異議申立人ら(Ewald Dörken AGおよびWächtershäuser & Hartz)が欧州特許条約(EPC)第100条(a)(新規性・進歩性欠如)および同条(b)(記載要件違反)に基づき異議を申し立てた事案の審判(控訴審)手続である。

EPO異議部は、特許権者の補助請求3(Hilfsantrag 3)に基づく補正発明には特許性(進歩性)があるとして、特許を同限定範囲で維持する中間決定を下した。これに対し、特許権者(登録時のクレームまたは上位の補助請求に基づく維持を主張)および異議申立人2(進歩性欠如による特許取消を主張)の双方が審判請求(Beschwerde)を提起した。

2. 判決の主文

1. 原決定(異議部の中間決定)を取り消す。
2. 本件特許を取り消す(Das Patent wird widerrufen)。

3. 主な争点

  • 争点1: 最寄り先行技術(D11)に基づく「客観的技術課題(Objective Technical Problem)」の認定
    (引例D11の浸透性下塗り塗料に対し、本件発明において主張された塗布性・付着性等の向上効果が立証されているか、あるいは単なる「代替組成物の提供」に留まるか)
  • 争点2: 相違点(水分含有量の変更、有機溶剤の完全排除、防腐剤の添加)の自明性(EPC第56条:進歩性)
    (有機溶剤を排除し水分量を高める改変が、当業者にとって「容易な代替手段の選択」または「性能の低下を伴う自明な改変」に過ぎないか否か)

4. 裁判所の判断ロジック(判示の要旨)

(1) 補助請求3に係る発明の進歩性(EPC第56条)の判断

審判部は、実務上の「課題・解決アプローチ(Problem-Solution Approach)」に従い、最寄り先行技術であるD11(DE 42 00 914 A1)と比較検討した。

  • 相違点および客観的技術課題の認定:
    本件請求項1とD11との相違点は、①水分量が少なくとも90.25重量%である点、②最大1.0重量%の防腐剤を含有する点、③特定有機溶剤(プロピレングリコール-n-ブチルエステル)を含まない(必須成分から排除された)点の3点である。特許権者は均一な発色や強固な付着性等の効果を主張したが、D11との対比における顕著な効果を示す比較例は存在しなかった。したがって、客観的技術課題は「単なる代替となるプライマー組成物の提供」と認定された(特許権者も口頭審理でこれを争わず)。
  • 水分量の限定について:
    D11の開示例(水分量89.69〜90.14重量%)は本件クレームの下限(90.25重量%)に極めて近接しており、D11自体にも水希釈可能である旨が示されている。格別の技術的効果が示されていない以上、範囲の選択は単なる恣意的な変更にすぎず、進歩性を基礎づけない。
  • 有機溶剤の排除(完全な水系化)について:
    特許権者は「有機溶剤の全廃は浸透性を損なうため当業者が想到し得ない」旨主張した。しかし、技術課題が単なる代替物の提供である場合、当業者に対する特定の示唆(Incentive)は不要であり、実用的な代替物(sinnvolle Alternative)とみなせるか否かで足りる(審決例T 1045/12参照)。仮に有機溶剤の排除によって付着性等の性能低下を招くとしても、単なる代替物の提供においては先行技術からの性能低下(Verschlechterung)は自明な選択肢として許容されるため、進歩性を肯定する根拠にはならない(審決例T 745/22、T 1865/22参照)。
  • 防腐剤の添加について:
    微量(最大1.0重量%)の防腐剤の添加は、水系組成物における周知・慣用技術の範囲内である。

以上の結果、補助請求3に係る発明は進歩性を欠き、EPC第56条に違反すると判断された。

(2) 主請求(特許維持)および補助請求1・2の判断

主請求および補助請求1・2の各請求項1は、補助請求3の請求項1よりも広義の概念を包含するものであるため、同様の理由により進歩性を欠く(EPC第100条(a) / 第56条違反)。

5. 実務上・判例上の法的なポイント

  • 課題・解決アプローチにおける「代替物提供」の認定と進歩性要件:
    最寄り先行技術に対する有利な効果(顕著な効果)が明細書および比較実験データによって裏付けられない場合、客観的技術課題は「代替物の提供(provision of an alternative)」へと再定義される。この場合、先行技術に特定の示唆(teaching/incentive)が存在しなくとも、当業者が通常取り得る代替手段の範囲内であれば自明と判断される(T 1045/12の法理)。
  • 先行技術に対する「性能低下(De-selection/Worsening)」の法的位置づけ:
    本審決(および引用されたT 745/22、T 1865/22)は、単なる代替品の提供において、先行技術の有利な成分(本件では有機溶剤)を排除することに伴う性能の悪化は「明らかな(自明な)性能低下」とみなされ、進歩性を主張する根拠にはなり得ないことを再確認している。先行技術から特定の必須的成分をオミットして特許性を主張する場合、同等以上の効果を維持していることの客観的立証(比較データ)が必須となる。

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