1. 事案の概要(事実経過・請求内容)
本件は、抗真菌薬候補化合物「SCY-078」のクエン酸塩およびその特定の結晶多形に関する欧州特許(EP 3 247 711)について、異議申立人(Synthon BV)が特許異議申立を行い、欧州特許庁(EPO)異議部が異議を棄却した決定に対し、申立人が不服として審判請求(Appeal)を申し立てた事案である。
特許権者(Scynexis, Inc.)は、登録された特許をそのまま維持する主請求(Main Request)の棄却を求め、予備的に請求項を特定の10種の結晶型(Type A等)に限定した補助請求1〜4(Auxiliary Requests 1 to 4)を提出した。異議申立人は、主請求および各補助請求について、新規性(EPC 54条)、進歩性(EPC 56条)、記載要件/新規事項追加(EPC 123条(2))、明確性(EPC 84条)および開示の十分性(EPC 83条)の違反を理由に特許の完全取消(Revocation)を求めた。
2. 判決の主文
1. 原決定(異議部決定)を取り消す(The decision under appeal is set aside)。
2. 補助請求4の請求項1〜10(およびこれらに適合させた明細書・図面)に基づき、特許を補正維持(maintain the patent in amended form)するため、本件を異議部に差し戻す(The case is remitted to the opposition division)。
3. 主な争点
- 争点1: 新規性(EPC 54条) - 先行文献D6(SCY-078またはその塩を開示し、塩のリスト中に「クエン酸塩」を例示)により、主請求(SCY-078クエン酸塩一般)の新規性が喪失するか(多段階選択の要否)。
- 争点2: 新規事項の追加禁止(EPC 123条(2)) - 補助請求4において、XRPD(X線粉末回折)の相対強度を除外して特定のピーク位置(d値および/または回折角2θ)のみを抽出して結晶型(Type A等)を定義することが許容されるか。
- 争点3: 進歩性(EPC 56条) - SCY-078の公知の塩または遊離塩基(D6等)から、FaSSIF/FeSSIF培地中での速度論的溶解度(動的溶解度)およびそれに伴うバイオアベイラビリティの向上を奏する特定のクエン酸塩結晶多形に到達することが当業者にとって自明であったか(ルーチンスクリーニングと成功の合理的期待)。
4. 裁判所の判断ロジック(判示の要旨)
1. 主請求および補助請求1〜3の新規性欠如(EPC 54条)
主請求の請求項1(SCY-078のクエン酸塩)について、先行技術D6はSCY-078を含む化合物群を開示し、塩形成剤としてクエン酸を含むリストを明記している。塩形成基(塩基性アミン基または酸性カルボン酸基)の分類は塩形成の機構を反映したに過ぎず、対イオンとして「クエン酸」を選択した時点で塩基性アミン基での塩形成が必然的に定まるため、独立した別個の選択(二重選択)とは評価できない(T 636/10参照)。したがって、D6はSCY-078クエン酸塩を直接かつ一義的に開示しており、新規性を欠く。同様の請求項1を有する補助請求1〜3も認められない。
2. 補助請求4の適法性(EPC 84条、123条(2)、83条、54条)
補助請求4は、SCY-078クエン酸塩を10種類の特定結晶型(Type A〜S)に限定したものである。
- 明確性(84条): 相対強度を記載せずピーク位置(d値・2θ値)のみで固体(結晶)を特定することは当業界の慣用実務であり、不明確とはいえない。
- 新規事項追加(123条(2)): 当初出願の段落[0176]等の記載(高強度の主要ピークに基づく開示)から、相対強度を伴わずに特定のd値・角度を「and/or」で組み合わせる根拠が直接かつ明確に導かれる。
- 開示の十分性(83条): Type A結晶の製造方法および速度論的溶解度の測定法は出願当初明細書に再現可能に開示されており、異議申立人から測定値の再現性を覆すに足る反証(counter-evidence)は提出されていない。
- 新規性(54条): 個別の結晶多形はD6に開示されておらず、新規性を有する。
3. 補助請求4の進歩性(EPC 56条)
最も近い先行技術(D6のSCY-078の塩または遊離塩基)に対する判断は以下の通りである。
- 客観的技術課題の設定: 出願当初明細書の実験データ(表18、表41)により、Type Aクエン酸塩結晶は他の塩(メシル酸塩、リン酸塩、フマル酸塩等)や遊離塩基に比べ、絶食時人工腸液(FaSSIF)および摂食時人工腸液(FeSSIF)中での速度論的溶解度が顕著に高いことが立証されている。FaSSIF/FeSSIFが経口薬のバイオアベイラビリティ予測に汎用される技術常識に照らせば、この溶解度向上は生物学的に有意義な「改善されたバイオアベイラビリティ」という効果と直接結びついており、拡大審判部決定G 2/21の基準を満たす。したがって、客観的技術課題は「改善されたバイオアベイラビリティを有するSCY-078塩を提供すること」である。
- 非自明性(Obviousness): 先行文献のいずれも、他の塩形成選択肢と比較してクエン酸塩がバイオアベイラビリティを向上させるという示唆を与えていない。当業者が通常の塩スクリーニング(routine salt screening)を実施する「単なる期待(mere hope)」を有していたとしても、それは望ましい結果を実際に達成できるという「成功の合理的な期待(reasonable expectation of success)」とは法的に同視できない(T 1684/16引用)。また、得られたクエン酸塩結晶多形は他の候補塩に比べて優れた溶解性を示しており、単なる任意の選択(arbitrary selection, T 777/08)にも当たらない。
以上より、補助請求4に係る発明は進歩性を有する。
5. 実務上・判例上の法的なポイント
- マーカッシュ形式・包括リストからの塩の選択と新規性: 単に公知化合物と公知の対イオンリスト(クエン酸等)が同一文献に記載されている場合、塩形成部位の選択が必然的であれば「単一の選択」とみなされ、塩の一般概念クレームの新規性が否定されるリスクが高い(実務上、化合物の塩を包括的に抑えるクレームの限界を示す)。
- ルーチンスクリーニングと進歩性(T 1684/16、T 777/08): 結晶多形や塩の創出において、常套的な塩スクリーニングプロトコルが存在する場合であっても、「特定の塩を選択することで顕著な溶解度・生体内利用能が向上する」という予期せぬ顕著な効果が立証されれば、単なる試行錯誤の希望(hope to succeed)を超えた進歩性が認められる。
- 薬物動態予測培地(FaSSIF/FeSSIF)データによる効果の立証(G 2/21の適用): in vitroのFaSSIF/FeSSIF溶解度データが、技術常識を介してin vivoのバイオアベイラビリティ向上という生物学的効果として当業者に合理的に導かれる場合、G 2/21に基づく客観的技術効果として正当に承認される。
- XRPDピーク特定によるクレームドラフティング: ピークの相対強度を記載せず主要ピーク位置(2θやd値)のみを抽出して結晶多形を特定する補正について、原出願の開示構造(主要ピーク群の記載)に依拠することでEPC 123条(2)および84条の要件をクリアできる実務的指針が示されている。
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