1. 事案の概要(事実経過・請求内容)
【当事者】
控訴人(異議申立人):アルケマ(ARKEMA FRANCE S.A.)
被控訴人(特許権者):株式会社クレハ(Kureha Corporation)
【事案の経過】
被控訴人が保有する欧州特許第3806190号(非水電解質二次電池用のフッ化ビニリデン・ヘキサフルオロプロピレン共重合体(PVDF-HFP)樹脂組成物に関する発明)に対し、控訴人が異議を申し立てた。EPO異議部は異議を棄却(特許維持)する決定を下したため、控訴人が本決定の取消しと特許取消しを求めて審判を請求した(T 0466/25)。
【請求範囲および主張の骨子】
本件特許の請求項1(主請求項)は、PVDF-HFPの融点(105℃〜125℃)、HFPの質量割合Wa(18〜30質量%)、結晶化度DC、非晶度DAが特定のパラメータ式「4.7 ≤ Wa × (DC/DA) ≤ 14」を満たす樹脂組成物を特定している。
特許権者(被控訴人)は、明細書に記載された温度修飾差査走査熱量測定(TMDSC)における「反転熱流(reversing heat flow)」に基づく結晶化度の測定法により特定される物性であり、従来技術と区別されると主張した。
これに対し異議申立人(控訴人)は、先行技術文献(D1: US 6,586,547 B1)の図面(図1および図3)に示されたデータ(HFP約25wt%のプロット)から算定される数値が本件パラメータの範囲内に含まれ、新規性(EPC 54条)を欠くなどと主張した。
2. 判決の主文
1. 原決定を取り消す。
2. 欧州特許第3806190号を取り消す(Patent is revoked)。
3. 主な争点
- 争点1:新規性(EPC 54条(1)(2))— 測定方法の違い(TMDSC vs DSC)と先行技術の図面開示の対抗性
TMDSC法で定義された物性パラメータ(真の融解エンタルピー)は、従来のDSC測定値で開示された先行技術(D1)と区別されるか。また、D1の図面にのみ示されたデータプロット(黒点)は新規性を否定する公然の開示にあたるか。 - 争点2:手続上の補正の許容性(RPBA 2020第13条(2)項)— 口頭審理段階での未開示ディスクレマー(Undisclosed Disclaimer)の提出
審判の口頭審理中に提出された補助請求項0(先行技術D1の開示を除外するディスクレマー)は、出願の審理に許容(admit)されるか。 - 争点3:補正の許容性(EPC 123条(2)項)— 不許容な中間上位概念化(Intermediate Generalisation)
特定実施例の数値(7.2)をパラメータ式の下限値として分離・抽出し、上位概念の融点範囲(105℃〜125℃)と組み合わせる補正が新規事項の追加にあたるか。
4. 裁判所の判断ロジック(判示の要旨)
1. 争点1(新規性)について:新規性欠如(主請求項および補助請求項A, 1, 2, 3, 5, 6)
- (1)測定手法の違いと物の同一性:
TMDSCと従来のDSCは、ともに熱力学的原理に基づく試料の吸熱・発熱現象を測定する手法であり、測定される「真の融解エンタルピー」は物質固有の物理量である(文献D6に示される通り両者は数学的に連動する)。測定機器の感度やデータ処理の違いに由来するわずかな測定値の差(測定アーティファクト)によって、既知の製品を新規な製品に転換することはできない。したがって、特許権者が主張するTMDSCによる測定定義をもって先行技術製品との差別化を図ることはできない。 - (2)先行技術文献D1の図面開示の対抗性:
D1の図1および図3には、HFP含有量約25wt%、融点約112℃、融解エンタルピー約20 J/gを示すPVDF-HFPのデータ(黒点)が記載されている。これを本件明細書の計算式に当てはめると、パラメータ「Wa × (DC/DA)」は 5.9 となり、請求項1の範囲(4.7〜14)に包含される。
図面によるグラフィカルな開示であっても技術的情報として明確であり、単なる例示にとどまらない独立した開示(公然の技術)として対抗力を有する。再現性の欠如等の反証もないため、請求項1はD1により新規性を欠く。
2. 争点2(口頭審理におけるディスクレマーの補正)について:許容せず(補助請求項0)
- 審判部の口頭審理において特許権者が提出した補助請求項0(D1の黒点に相当する共重合体を除外するプロビソ/ディスクレマー)は、審判手続規則(RPBA)第13条(2)項の「例外的な事情(exceptional circumstances)」に基づくものとは認められない。審判部が原審と異なる見解を示したこと自体は、直前の補正を正当化する例外的理由にはならない。
- さらに、拡大審判部決定G 1/03およびG 2/03の法理に基づき、同一技術分野のEPC 54条(2)項に基づく先行技術(同一分野の公知文献)を回避するために「出願当初に開示されていないディスクレマー(undisclosed disclaimer)」を追加することは認められない。
3. 争点3(補正要件・新規事項の追加)について:要件違反(補助請求項4, 7, 8, 9)
- 補助請求項4等において、パラメータ式の下限値を「4.7」から「7.2」に変更する補正が行われた。この「7.2」という数値は、当初明細書の「実施例3」からのみ抽出されたものである。
- しかし、実施例3は「HFP含有量29.1wt%」「融点112℃」という極めて特定の構成・物性値を併せ持つ個別の実施例である。この特定の実施例から「7.2」というパラメータ値のみを単独で抽出し、これを請求項の広範な融点範囲(105℃〜125℃)と組み合わせる補正は、当業者が当初出願書類から直接かつ一義的に読み取れるものではなく、「不許容な中間上位概念化(unallowable intermediate generalisation)」に該当し、EPC 123条(2)項に違反する。
5. 実務上・判例上の法的なポイント
1. パラメータ特許における測定手法と新規性の関係
特定の測定方法(本件ではTMDSCの反転熱流測定)を特定してパラメータ範囲を定義しても、それが先行技術に存在する物質の物理的特性と本質的に同一である場合、測定手法の相違や測定上のアーティファクトを理由に新規性を提示することはできない。パラメータ特許を出願・権利化する際は、測定手法の特殊性だけでなく、得られる「物そのもの」が先行技術と明確に異なることを立証する必要がある。
2. 図面(グラフ)に示されたデータプロットの先行技術性
数値が明示された表や文章で直接記載されていないデータ(グラフ上のプロット等)であっても、当業者がそこから技術情報を明確かつ直接的に読み取れる場合、新規性を否定するための強力な先行技術(公然開示)となる。先行技術の「図面の記載にすぎない」「表に数値がない」という反論は認められにくい実務が再確認された。
3. 未開示ディスクレマー(Undisclosed Disclaimer)の厳格な制限(G 1/03法理)
EPC 54条(2)の先行技術(同一技術分野の公知文献)を回避するために、出願当初の明細書に記載のないディスクレマーを追加することはG 1/03およびG 2/03判例上不許可とされる。EPO審判手続におけるディスクレマーの適用範囲は極めて限定的であり、口頭審理段階での回避手段としても認められない。
4. 実施例からの数値抽出(中間上位概念化)に対する厳密な判断
実施例から特定のパラメータ値のみを抽出し、他の限定要素(本件では特定の融点や組成比)から切離して上位概念の請求項に下限値等として取り込む補正は、「不許容な中間上位概念化」としてEPC 123条(2)項違反とされるリスクが高い。数値範囲の補正を想定する場合は、出願当初の明細書中に一般的な数値範囲の選択肢としてあらかじめ記載しておくか、抽出可能な中間的構成を明確にしておく実務上の工夫が不可欠である。
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